2008年7月6日日曜日

『グッバイラヴタウン』特集5

特集第五回目は、フライヤーにある五番目の「したがって『グッバイラヴタウン』の売り上げが、そのまま杉山の旅に直結し、運命を左右する」に関して、ディグディグしていきましょう。



僕は根っからのゲーマーである。

小学校三年生の頃、ファミコンが発売された。
それまでもスーパーカセットビジョンなどを持っていたが、新しさ、面白さ、かっこよさに関して、ファミコンは他のテレビゲーム機の追随を許さず、明らかに群を抜いていた。

僕らは、ファミコンに熱狂した。
以来、数多のゲームをプレイした。
中でもハマッたのは、RPG、ロールプレイングゲームだった。



王様に世界を託された勇者ロトの血をひく「たくろと」は、人々の生活を脅かすモンスターたちをなぎ倒しながら、お金と経験値をため、そのお金で武器や防具を購入して、少しずつ新しい土地、町へとその世界を広げ、さまざまなアイテムを手に入れ、さまざまなモンスターを倒し、途中お姫様を助けたりして、諸悪の根源であるという「りゅうおうのしろ」を目指した。

ラダトームにあるという「たいようのいし」が見つからず、困りに困って探し回り、もうダメだ、と諦めて城
の外へでようとしたとき、偶然みつけたほこら!その後、幾多の困難を退け、「りゅうおうのしろ」に潜入、玉座の後ろからダンジョンに入り、わざわざその最下層のオドロオドロシイ毒の沼地のさらに奥にいる「りゅうおう」と戦ったとき、僕はあまりの興奮に手にアセし、振り下ろす剣先は震えていた。こんな状況でこいつに勝てるわけがない。レベル以前の問題だ。一度「りゅうおう」に敗れた僕は、修行を積み、戦略を練った。そして、もう一度「りゅうおう」に合間見えたとき、最初の興奮は腹の下に抑え、冷静に「りゅうおう」に切りかかっていったのだった・・・



ロールプレイングゲームが、単なるプログラムの処理に見えてしまったのはいつの頃だっただろう?歳をとったからだろうか?それともゲームに飽きてきた?

いや、そうじゃない。
歳はとったが、ゲームに飽きてなどいない。
むしろ、ずっと、もっと面白いゲームを求めてきた。
ファミコンによって培われたゲーム魂は、簡単に潰えはしない。
僕は、根っからのゲーマーなのだ。



旅に出る前、やったことは、私財の処分であった。

どうしても捨てられないものを除いて(それは段ボール二箱分だった)、それまで持っていた物を、友人にあげたり、捨てたりして、すべて処分した。

物だけではない。
お金も使い切った。
というより、旅の準備をしたら、なくなってしまった。
もともと、使い切るくらいしか持っていなかったのだ。
旅立ちの日、僕が持っていた現金は、多く見積もって、三万円くらいだったと思う。

場所もそうだ。
京都の家は引き払い、帰る場所もなくなった。
千葉の浦安に実家があるが、魂的に、あまり帰りたくない。それが旅の風情ってもんである。だいたい帰ったら帰ったで、最初は歓迎してくれるものの、何日か居ればこっちも尻の座りが悪くなり、そのうち、なんだお前まだいるのか、とか言われるのが関の山なんである。

まー、よーするに、なんにもない、ゼロからのスタートだ。
自分から、そういう状況にしたのだった。

なぜって、これこそ、ゲームだから。
ゲームのルールはシンプルな方がよい。

得るお金は、モンスターを倒す代わりに、音源による収益と、ライブによる収益の二点だけ(注1)。
そのお金で装備を買ったり、次のライブに向けて移動したり、日々の口を糊したりしていく。

お金ががなくなればゲームオーバー。
旅は終了である。
それは同時に、自分の音楽が売れなかった、ということを意味している。
音楽生命の終焉だ。
突っ込めば、実はそれどころでなく、金がなくなれば、食えなくなり、移動もできなくなる。
生命が絶たれる。
分かりやすく言えば、僕はこのゲームに、命をかけてるんである。

こんな風に書くと随分と大袈裟に聞こえる。
しかし、実はこれ、みんなやってることなのだ。
この世で、働いて飯食って糞して愛し合って生きている人はみな(そうでない人もみな)、命かけて、生きてる。旅してる。ゲームしてる。
生きてるってのはそういうもんだ。

そもそも、風博士の杉山が死ぬことはない。
ゲーム有史以来、本当の意味で、死んでしまったロールプレイングゲームの主人公が存在しないように。

というわけで、旅は、人生は、ゲームは、まだまだ続く・・・
この特集もまだまだ続く・・・

次回の特集は、「『グッバイラヴタウン』が届くまで」です。

注1 実は、古書販売もしてる

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